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画像提供:株式会社クルーズライフ

南極大陸

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 南半球の南極地方にあり、南氷洋に囲まれた南極圏に位置し、南極点を含む大陸で、世界で5番目に大きな大陸。面積約1400万km2は、オーストラリア大陸のほぼ2倍に相当します。約98%は氷で覆われ、その厚さは平均1.6kmに及びます。


 平均気温が最も低く、乾燥し、強風に晒され、年間降水量が海岸部分で200mm、内陸ではさらに少ない砂漠となり、気温は-93.2°Cにも達することがあり(2010年8月10日記録)、この気温では人間が定住することは難しく、大陸中に点在する研究所のみ年間を通して約1000-5000人が滞在しています。
この厳しい自然環境下に適応可能な生物のみが生存し、多くの藻類、ダニ・線虫やペンギン・鰭脚類・節足動物などの動物類、バクテリア、菌類、植物および原生生物(植生はツンドラ)が繁殖しています。
 かつて、「南の地」を意味するメガラニカ (Terra Australis) という大陸が空想されていた南極域に、公式に大陸が存在する事が確認されたのは1820年にロシアの探検家ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフがボストーク号とミールヌイ号で行った遠征に端を発します。しかし、厳しい自然環境や、当時は資源が見つからなかった事、そして孤立的な地理条件から、19世紀中はほとんど歯牙にかけられませんでした。


 1959年、12ヶ国の批准で始まった南極条約は、その後加盟国が49にまで増え、軍事的活動や鉱物採掘、核爆発や核廃棄物の発生を禁止し、科学的研究の支援と生物地理区としての保護を定めました。現在、多くの国から派遣された科学者たちが、研究や実験を行っています。

南極大陸クルーズビデオ①(YouTube日本版)

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南極大陸クルーズビデオ②(YouTube日本版)

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南極大陸クルーズビデオ③(YouTube日本版)

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南極大陸クルーズビデオ④(YouTube英語版)

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南極大陸クルーズビデオ⑤(YouTube英語版)

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南極大陸クルーズ

この南極クルーズでは氷河に塞がれた壮大な水路を進み、険しい山々が取り囲む、雪に覆われた広大な地球最後の秘境・南極にいよいよ到着です。この探検クルーズのハイライトといえる南極の神秘に大いに迫ります。
この氷と雪の世界では、可愛らしいゼンツーペンギン、ヒゲペンギン、アデリーペンギンたちの広大なルッカリーを観察する予定です。 また南極ツアーでは、大空を飛び交うズグロムナジロヒメウやミナミオオセグロカモメ、マダラフルマカモメ、ユキドリなどのさまざまな鳥たち、 氷の上にくつろぐカニクイアザラシ、ウェッデルアザラシ、ヒョウゾウアザラシと感動の出会いを期待します。
さらに船上から目を凝らせば、シャチやザトウクジラ、ミンククジラが氷の海を華麗に泳ぐ姿を発見できるかもしれません。楽園という表現にぴったりのパラダイス・ハーバー(もしくはその近くのネコ・ハーバー)、氷河に囲まれた厳しくも美しい風景は、生涯忘れられない光景となるでしょう。

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ご案内人 兼通訳、兼動物生態学解説員

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林公義(はやしまさよし)先生

日本野鳥の会神奈川支部顧問、日本魚類学会評議員、日本安全潜水教育協会顧問、
東京都動物園協会理事の他、横須賀市自然・人文博物館館長など歴任。
ICOM(International Council of Museums・国際博物館会議)委員
日本科学写真家協会会員。 
海洋生物や海鳥の生態調査のために主にインド~太平洋西部海域の島々や
ミッドウェー、ガラパゴスなど多くの孤島をフィールドとしている。
専門は、魚類・海洋生物の分類学・生態学、博物学。
現在、東海大学・日本大学・北里大学の学芸員課程講師。
ペンギン研究で日本の第一人者、親友(故)青柳昌宏先生とは「ペンギンに
まつわる話を始めたら互いに一歩も譲らず、気がつけば朝になり、授業開始時刻の
ベルが鳴っていた。」という笑話がある。
NHKの科学番組の取材同行や得意なダイビングを活かした自然観察、教育普及活動
を行いながら、現在「NHK子ども電話相談室」のレギュラー相談員を務める。 
英語堪能。 各種図鑑・啓蒙書(共著者)、写真集など著書多数。

客船

Ocean Diamond(指定)

船図

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オーシャン・ダイモンド
元川崎汽船株式会社の「ソング・オブ・フラワー」として、長年クルーズファンに親しまれてきた名船で、エレガントなファンネルと広いデッキが自慢。2004年全面改装し、定員は189名の極地旅行に特化した船となる。多彩なアドベンチャー・オプションや豊富な極地資料、マッサージ・プログラムやウェルネス・プログラムまで兼ね備えた、快適な環境をご用意しています。

 主な設備

 レストラン
 ※お食事は入れ替えなしの自由席
 ギフトショップ
 レクチャーシアター
 膨大な極地資料やDVDを収めた図書館
 マッサージやウェルネス・プログラム
 ※ヨガ教室・アロマテラピー等
 衛星回線電話
 電子メール
 インターネット環境
 エレベーター(1基)
 フィットネス 
客室の主な設備

 薄型テレビ
 DVDプレーヤー
 温度調整装置(暖房エアコン)
 バスロープ
 ヘヤードライヤー
 バスタブ浴室(一部を除く)
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その他

 写真イラスレーターによる写真撮影プログラム
 アドベンチャーオプションで利用するキャンピング用品
 ※高品質で知られる米国REI社製
 ギフトショップ
 クリニック


旅行募集要項

日程2015年12月27日(日)~2016年1月9日(土)14日間
旅費ツインルーム1,968,000円
残席/10名
一人参加歓迎。
お一人様でご参加頂きましてもシングルルームを希望されない場合には、
基本料金のみでご参加いただけます。その場合は親族・知人友人等を除き、
男女別2人1部屋にて船会社が部屋割りを行います。
尚、場合により他の国籍客と一緒のお部屋になる場合もございます。
バルコニースイート2,298,000円
残席/2名
このカテゴリーは2名参加(同室)が原則になります。
シングルルーム2,288,000円
残席/4名
陸地、船内共にすべてシングルルームとなります。
国内線割引運賃札幌、中部、伊丹/関西、福岡、沖縄など
ビジネスクラス弊社までお問合せ下さい。
最小催行人員10名様(最大17名様)※確保部屋数のみの募集ですのでお早目に申込下さい。
添乗員弊社より同行いたしません。(林公義先生が「通訳兼ご案内人」となります。)
旅費に含まれるもの航空運賃(エコノミークラスご利用)
ウシュアイアの宿泊代金(2人1部屋基準)
クルーズ代金(詳細は下記をご覧下さい。)
日程通りの食事
旅費に含まれないもの旅券(パスポート)取得費用
 ※→旅券取得方法はコチラ
個人的性質の出費(酒、タバコ、通信費用等)
超過手荷物料金(お一人様23kg×2個まで無料)
 ※→受託手荷物についてはコチラ
海外旅行傷害保険(任意加入)
日本の空港税(成田)
海外の空港税(合計:未定)※為替レートにより増減します。
燃油サーチャージ(合計:未定)※航空会社の発表により変わります。
航空保険料(合計:未定)※航空会社の発表により変わります。
クルーズ代金に含まれるもの
画像の説明パルカ
クォーク社特性のパルカ(防水性の防寒上着)
②ゴム長靴の無料貸し出し
③画像入りDVDの航海記録「フォト・グラフィック・ジャーナル」
④客船にご乗船中の全食事(朝食・昼食・夕食・アフタヌーンティー
⑤コーヒーや紅茶、ココア、飲料水の24時間無料提供
⑥南極での上陸観光及び、ゾディアック・クルージング観光
 ※但し、アドベンチャー・オプションは除く。
⑦エクスペディションチーム或いは、ゲストスピーカーによるレクチャー(南極講座)
 ※日本語通訳人が同乗しております。
⑧南極の地図や資料(英文)
⑨出港日の前日、ウシュアイア空港到着からホテルまでの混載バスによる送迎
⑩出港日、ホテルからウシュアイア港停泊中の客船までの混載バスによる送迎。
 ※但し、徒歩圏内の場合には歩いて移動する場合もございます。
⑪ウシュアイア港で下船後、ウシュアイア空港までの混載バスによる送迎
⑫客船に乗船・下船する際の荷物ハンドリング(運搬)
⑬ポートチャージ及び、サービスTAX
⑭乗客全員に対する緊急避難保険(US$100,000)の付与。
 ※この保険は個人的な病気や怪我に対しては適用されません。
クルーズ代金に含まれないもの①アドベンチャー・オプション
②クリーニング代
③衛星電話、Eメール、インターネットなどの通信費
船内チップ(1日に付きお一人様US$13~$15)※客船内にてお支払下さい。
申込締切日2015年7月21日(火)
申込金旅行代金の20%以上旅行代金まで
申込方法①旅券をスキャニングして「.PDF」「.JPEG」等にして保存して下さい。
 ※お申込時点で旅券をお持ちで無い方は後日弊社までお送り下さい。
 ※スキャニング環境が無いお客様はFAXにて弊社までお送り下さい。(FAX/03-3545-4614)
②下記ボタンよりお申込み下さい。
③確認メールが届きましたら、記載されております弊社指定銀行に「申込金」をお振込ください。

 取り消し料 

取消日取消料
旅行開始日の前日からさかのぼって予約時から121日前まで無料
120日前~91日前まで旅行代金の25%
90日前~前日まで旅行料金の50%
当日、旅行開始後または、無連絡不参加旅行代金の100%

 クルーズ保険に加入下さい。 

クルーズ保険(海外のみ)の正式呼称は、クルーズ旅行取消費用補償特約と 呼ばれております。通常皆様が掛けておられる海外旅行保険に特約としてセットする保険です。海外クルーズは申込時期も早期となり、キャンセルチャージも高額となります。そんな時、出発前の予期せぬトラブルによる旅行中止、同室予約 のお仲間が予期せぬ病気、ケガ、トラブルで旅行中止によりご自分の旅行を キャンセルした場合など、補償する特約の保険です。 クルーズ保険は、1年前から掛けることができます。(通常の保険とのセットは、 6ヶ月前から。)。 保険金額は、旅行代金全額をめどに設定して下さい。 なおこの特約は、インターネットでは申し込むことができません。

パンフレットのダウンロードはコチラ→ 

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ツアー日程

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 アルゼンチン最南端のウシュアイアからドレーク海峡を横断して南極大陸の最北端に位置する南極半島を巡り
 ます。沿岸を航行して見学している間、愛らしいペンギンやアザラシ、クジラ、多くの海鳥が出迎えてくれます。
 さらに南極大陸に実際に上陸し、南極の壮大さを実感します。南極の船旅は生涯忘れられない素晴らしい思い出
 となることでしょう。

日付場所時間日程食事
2015年
12月27日
日曜日

成 田
アトランタ

発15:20
着13:30

発19:50
■成田空港集合出発2時間半前。
■空路、デルタ航空でアトランタへ移動します。
※DL296(12時間フライト)
■米国入出国手続き。
■空路、デルタ航空でブエノスアイレスへ移動します。
※DL101(10時間フライト)
  【機内泊】

機内
機内
12月28日
月曜日
ブエノスアイレス


ウシュアイア
着07:55

発14:30
着18:05
■アルゼンチン入国・通関手続き。
■国内線ターミナルへ移動します。
■空路、国内線でウシュアイアへ。
■ウシュアイア到着後、船会社の混載バスでホテルへ移動します。
  【ウシュアイア泊】
機内

12月29日
火曜日


ウシュアイア
世界最南端の港町アルゼンチンのウシュアイアは、パタゴニア地方や
南極への旅の玄関口として、また交通の要衝として栄えています。
海と山に囲まれた美しいウシュアイアの町の散策をお楽しみください。
手づくりチョコレートやアルゼンチンワインなどおみやげも充実して
います。

※スーツケース等の大きなお荷物は朝食後にお預かりします。
■午前、フエゴ国立公園見学。
■午後、自由行動。
■夕刻、徒歩にて桟橋まで移動し、南極クルーズ船へ乗船します。
夕刻、いよいよ待ちに待った南極へ向けてウシュアイアを出港します。
本船はビーグル水道を進みます。この水道は、チャールズ・ダーウィン
が世界周航したビーグル号に因んで名づけられたことでも有名です。
私たちの船出を祝うかのように山裾に開けたウシュアイアの町が夕日を
浴びて光り輝き、船尾には多くの海鳥が追いかけてきます。

  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


12月30日
水曜日
■ドレーク海峡横断
天候の予測が難しいことで有名なドレーク海峡を横断します。
ここでは刻々と天候や海象の状況が変化しますので備えが必要です。
安全のためのガイダンスや南極の野生動物や探検の歴史など
レクチャーも始まります。

  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


12月31日
木曜日
■ドレーク海峡横断
 ※林公義先生の「南極をより良く理解しよう」レクチャー
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


2016年
1月1日
金曜日
■サウスシェトランド諸島と南極半島見学。
クルーズ詳細は下記をお読みください。
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


1月2日
土曜日
■サウスシェトランド諸島と南極半島見学。
 ※林公義先生の「南極をより良く理解しよう」レクチャー
クルーズ詳細は下記をお読みください。
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


1月3日
日曜日
■サウスシェトランド諸島と南極半島見学。
クルーズ詳細は下記をお読みください。
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


1月4日
月曜日
■サウスシェトランド諸島と南極半島見学。
 ※林公義先生の「南極をより良く理解しよう」レクチャー
クルーズ詳細は下記をお読みください。
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


101月5日
火曜日
■ドレーク海峡横断
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


111月6日
水曜日
■ドレーク海峡横断
 ※林公義先生の「南極をより良く理解しよう」レクチャー
  【船中・オーシャンダイヤモンド号泊】


121月7日
木曜日
ウシュアイア
ブエノスアイレス


発14:05
着17:33
発21:30
■ウシュアイア入港・下船。
■船会社の混載バスで空港へ移動。
■空路、国内線でブエノスアイレスへ。
※AR1853(3時間30分フライト)
■着後、国際線ターミナルへ移動。
■アルゼンチン出国手続き。
■空路、アトランタへ移動。
※DL110(10時間フライト)
  【機内泊】


機内
131月8日
金曜日
アトランタ
着05:43
発12:15
■米国入国手続き。
■空路、成田へ移動。
※DL295(14時間フライト)
  【機内泊】
機内
機内
141月9日
土曜日

成 田

着16:35

■成田空港到着後語16時35分。

-お疲れ様でした!
機内


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南極Q&A

 ▼文字を「クリック」すると回答が開きます。

20歳代~80歳代まで広くご参加いただいております。健康であれば年齢に関係なくご参加いただけます。

南極には人間が住んでいないため、携帯電話の通信に必要な基地局がありませんのでご利用できません。

テキスト(文字データのみで画像は不可)に限り、客船に設置されているパソコンでEメールの送受信が可能です。(有料)但し、個人所有のパソコンを使用して客船から送受信することは出来ません。

船の揺れを予測することはとても難しいことですが、南米最南端から南極半島に到達するためには、ドレーク海峡を通過しなければなりません。ドレーク海峡は一年中荒れ狂ってわけではなく、穏やかな日も多くあります。海が時化た日は、ベットで横たわっているのが一番快適で安全です。
船に弱いお客様は乗船する日の昼食後、酔い止めの薬を服用ください。効き目がない場合には酔い止めの注射(有料)があります。この酔い止めの注射は旅行中1回の接種で十分です。

船内には医師が常駐し、お客様の健康管理に努めています。

船内の温度は22℃~24℃くらいに調整されていますが、それぞれの客室にて調整も可能です。

船内のコーヒーステーションには、24時間いつでもコーヒー・紅茶・ココア・飲料水が用意されており、無料でご自由にお飲みいただけます。

通常、日本製のデジタルカメラやビデオカメラ、ノート型パソコンのバッテリーチャージャーは、100V~240Vグローバル対応していますので充電が可能です。但し、コンセントの形状はヨーロッパ式の丸2穴(C型)になりますのでアダプターを持参下さい。

可能です。但し、寒冷地のため、バッテリーの消耗が通常より早くなりますので必ず予備バッテリーをご持参下さい。

距離は約1,000kmです。所要時間は気象・海象の状況によりますが約45時間です。

南極クルーズには、1名のエクスペディションリーダー(探検隊長)と20名のスタッフが同行しています。

南極の季節は夏です。天候が良ければ摂氏5℃、天候が崩れた場合には氷点下5℃ぐらいです。但し、大自然の天候は非常に厳しいので気温が氷点下10℃くらいになっても耐えられる服装をご用意下さい。

アルゼンチンのウシュアイア港から南極半島へ向かう場合、ウシュアイアと同じ時間を採用しています。(日本より12時間遅れています。)

白夜のため、オーロラを観られる可能性はありません。

南極地域はどこでも氷山に遭遇する危険があります。しかし、ご利用いただく客船は高性能の氷山探知機が備え付けてられており、遠くにある氷山でも探知して迂回する事が可能です。客船の速度や進行方向は現地の海域・天候・氷に合わせて調整しています。

上陸して見学します。通常、午前と午後の2回上陸を予定しています。
南極滞在中は「上陸観光」や「ゾディアック・クルージング」を予定しています。1回の見学時間は2~3時間です。もし、早めに本船にお戻りになりたい場合には、帰船時間を待たずに戻ることが出来ますのでご安心下さい。

野生動物が多く生息している近くに上陸しますので、長時間歩いて見学することはありません。

あまり歩き廻っていると良い写真が撮れません。じっくり観察していると良いアングルのシャッターチャンスに恵まれます。

天候と海象、氷の状況が許せば、パラダイス湾あるいは、ネコ・ハーバーで南極大陸本島に上陸を予定しています。

資料

①南極探検の歴史

南極地域に対する初期の認識は「地球は球体だ」と主張したギリシャの哲学者たちの知識からきていて、すでに知られている北半球の大陸とバランスをとるために「地球の南端に巨大な大陸があるはずだ」とする考えからきていました。
 哲学者たちに良く知られていた北の星座、大熊座(アークトス)に対比して想像上の南の大陸をアンタークトスと名付けました。当時それは純粋に理論上の推論で、実際に具体的なことは何も分かってはいませんでした。それでも古代の想像上の大陸が猫かれた地図が200年間にわたって使われ続け、その大陸をラテン語でテラ・オーストラリス・インコグニタ(未知の南の大陸)と名付けられていました。以来、南極は探検の時代、アザラシ猟の時代、英雄の時代、そして南極大陸征服・捕鯨の時代と時が移り、現在は南極条約に基づく国際協力の時代になっています。
1498年バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)/ポルトガルの探検家
→ヨーロッパからアフリカ最南端の喜望峰を経てインドへ航海。
1520年フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)/ポルトガルの探検家
→史上初の世界一周を成し遂げた(マゼラン海峡の通航に成功)。
1578年サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake)/イギリスの航海者
→ドレーク海峡を航海し、地球の最南端には広大な海洋が広がっていることを証明。
1642年&1644年アベル・ヤンスゾーン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)/オランダの探検家
→オーストラリア大陸が独立した大陸であることを証明。
1772年~75年ジェームス・クック(James Cook)/イギリスの海軍士官、海洋探検家
→2度目の航海で、サウスジョージア島とサウスサンドウィッチ諸島を発見。
1772年イヴ・ジョセフ・ド・ケルゲレン・ド・トレマレック(Yves Joseph de Kerguelen de Trémarec)/フランスの海軍士官、探検家
→2度の航海でケルゲレン諸島を発見。
1819年ウィリアム・スミス(William Smith)/イギリスの地質学者
→サウスシェトランド諸島の発見。
1820年ファビアン・ゴッドリーフ・フォン・ベリングスハウゼン(Fabian Gottlieb von Bellingshausen)/ロシア帝国海軍准将
→サウスサンドウィッチ諸島の測量とピヨートル1世島の発見、べリングスハウゼン海発見、南極大陸を周航。
1820年エドワード・ブランスフィールド(Edward Bransfield)/イギリス海軍
→南極のサウスシェトランド諸島を記録。
1820年11月16日ナサニエル・ブラウン・パルマー(Nathaniel Brown Palmer)/アメリカのアザラシ猟の船長
→南極半島の沿岸と思われる陸地を沖合5kmから目撃。
1822年ジェームス・ウェッデル(James Weddell)/イギリスのアザラシ猟の船長
→ウェッデル海で、南緯74°15′まで到達。
→新種のウェッデルアザラシを発見。
1829年ジョン・バレニー(John Balleny)/イギリスの捕鯨船長
→バレニー諸島と南極大陸のサブリナ海岸を発見。
1837年~40年ジュール・デュモン・デュルヴィル(Jules Sébastien César Dumont d'Urville)/フランス南極探険隊
→サウスオークニー諸島とサウスシェトランド諸島の地図を作成。
→アデリーランド(東経140°付近の南極大陸)を発見。
1838年~42年チャールズ・ウィルクス(Charles Wilkes)/アメリカの海軍士官、探検家
→ウィルクスランドと呼ばれる南極大陸の沿岸の大部分を発見。
1839年~43年サー・ジェームズ・クラーク・ロス(Sir James Clark Ross)/イギリスの北極・南極の探検家
→ビクトリアランド(ロス海西岸部分)を発見、エレバス火山を発見。
→ロス海沿岸の海図を作成。
1897年~99年エイドリアン・ジェルラッシュ・デ・ゴメリャン( Adrien Gerlache de Gomeryan)/ベルジカ号によるベルギー探検隊
→国際的な探検隊としてベルジカ号で南極の科学的な調査に出港したが、氷に閉じ込められ南極初の越冬船となる。
1893年カール・アントン・ラーセン(Carl Anton Larsen)/ノルウェー・イギリス南極探検隊
→グレアムランドのいくつかの地形を発見し、フォイン・コースト、キング・オスカー・ランド、ヤーソン山、ロバートソン島と命名。
1895年1月24日カールステン・ボルヒグレヴィンク(Carsten Borchgrevink)/ノルウェーの南極探検家
→南極大陸のアデア岬で初の越冬。ソリでロス棚氷を南に16km旅をした。
1898年カールステン・ボルヒグレヴィンク
→イギリス隊を率い、初の南極大陸冬季探検(サザンクロス探検)を行った。
1901年~03年エーリッヒ・ダゴベルト・フォン・ドリガルスキー(Erich Dagobert von Drygalski,)/ドイツ南極探険隊
→ウィルヘルム2世ランドを調査。
1901年~04年ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott)/イギリス南極探検隊
→第1回イギリス南極探検隊(ディスカバリー号の探検)。
→南極点到達を目指し、残り733km(南緯82)の地点で断念。
→ペンギン生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得た。
1901年~04年オットー・ノルデン・ショルド(Otto Nordenskjold)/スウェーデンの南極探検隊
→ウェッデル海を目指したが、探検船アンタークティック号は氷に押しつぶされ沈没。
1903年11月ようやく生存者全員が救出された。この探検で、多くの科学的貢献をおこなったことで知られる。
1902年~04年ウィリアム・スピアーズ・ブルース(William Speirs Bruce)/スコットランド南極探検隊
→コーツランドの北東部分を発見。
1903年ジャン・バティスト・シャルコー(Jean-Baptiste Charco)/フランス南極探険隊
→南極半島のかなりの海域の海図を作成。
1907年~09年アーネスト・シャクルトン(Sir Ernest Henry Shackleton)/イギリス南極探検隊
→「南極点と南磁極」到達を目指したが、南極点まであと180kmの地点(南緯88°23′)で食料欠乏のため、南極点到達を断念。南磁極への到達とエレバス山への登頂は、オーストラリア人のエッジワース・デービットとダグラス・モーソンによって達成。
1908年ジャン・バティスト・シャルコー(Jean-Baptiste Charcot)/フランス南極探検隊
→探検船プルクワ・パ号で再び南極に戻り、南極半島の海岸線2,222kmの測量をおこなった。
1911年~14年サー・ダグラス・モーソン(Douglas Mawson)/オーストラリア南極探検隊
→オーストラリア南極探検隊を率いて、オーストラリアに近い南極沿岸のジョージ5世ランドとアデリーランドの探検をおこなった。
1911年12月14日ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)/ノルウェーの探検家
→人類初の南極点到達を果たす。
1912年1月17日ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott)/イギリス探検隊
→南極点到達を果たすが、帰路遭難し、4名の隊員(エドワード・ウイルソン、ローレンス・オーツ、ヘンリー・バワーズ、エドガー・エヴァンス)とも全員死亡。
1912年1月28日白瀬矗(しらせ のぶ)/日本の南極探検隊
→南緯80度、西経156度37分に到達、大和雪原(やまとゆきはら)と命名し帰国
1912年ヴィルヘルム・フィルヒナー(Wilhelm Filchner)/ドイツ南極探検隊
→ドイッチュランド号 から ルイトポルド・コースト を発見。
1914年12月~1916年5月アーネスト・シャクルトン(Sir Ernest Henry Shackleton)/イギリスの南極探検隊
→ウェッデル海から南極点を通過してロス海へ至る南極大陸横断探検。
→探検船エンデュアランス号がウェッデル海で氷に押しつぶされ沈没、約1年8ヶ月にわたる漂流の末、生還。
1928年11月16日サー・ヒューバート・ウィルキンス(Sir Hubert Wilkins)/オーストラリア
→ロッキードベガ単発機でデセプション島から南極半島へ初飛行。
1929年11月29日リチャード・イブリン・バード(Richard Evelyn Byrd)/アメリカの探検家
→人類初の南極点上空飛行を果たす。その後、1929年、1934年、1940年に南極にて越冬。
1934年~37年ジョン・ビスコー(John Biscoe)/イギリスのグレアムランド探検隊
→南極のグレアムランドを広く調査し、グレアムランドは群島ではなく、南極大陸の一部である事とジョージ6世棚氷によってアレキサンダー島と南極半島と切離れていることを実証。
→ビスコー諸島の氷に覆われた低地の島をワトキンス島と命名。
1936年リンカーン・エルズワース(Lincoln Ellsworth)/アメリカの極地探検家
→初の南極大陸横断飛行を果たす。
1947年11月~12月フィン・ロンネ(Finn Ronne)/アメリカのロンネ南極調査隊
→南極のウェッデル海に張り出した棚氷で、バークナー島を境に東側がフィルヒナー棚氷、西側がロンネ棚氷。
二つ併せてフィルヒナーロンネ棚氷を航空機からの観測で発見。
1951年ヴィヴィアン・フックス(Sir Vivian Ernest Fuchs)/イギリス連邦南極横断探検隊
→100日かけウェッデル海からロス海までをエンジン付きのソリで横断、地震波の測定や重力の測定、極点の氷の厚さや氷の下に大陸のあることを確認。
1958年1月4日サー・エドモンド・ヒラリー(Sir Edmund Percival Hillary)/イギリス連邦南極横断探検隊
→農耕用トラクターで南極点に到達。


②南極の探検家たち

南極大陸を最初に発見したのは誰だったのでしょうか? どこの誰であったかは定かではありませんが、多分1820年の出来事だったと思われます。
ロシア帝国探検隊長であった、エストニア人のタデウス・フォン・ベリングスハウゼンだったでしょうか? または、英国海軍大尉エドワード・ブランズフィールドだったでしょうか? それとも、米国コネチカット州ストーニントン出身の若きオットセイ猟船長のナサニエル・パルマーだったでしょうか?あるいは、その内の誰でもなく、企業秘密を護るために自分の発見を公にしなかった別のオットセイ猟師だったかもしれません。

南極大陸に最初に上陸したのはおそらく、アメリカのコネチカット州ニュウヘイヴンから来た、オットセイ猟師のジョン・デイヴィスだと考えられます。

彼は1821年2月7日に南極半島のヒューズ湾と思われる海岸に上陸し、航海日誌に「この南の陸地は大陸だと思う。」と記しています。南極大陸に上陸した最初の女性は、1934年ノルウェーの捕鯨船、トースハウン号船長クラリウス・ミケルセンの妻、カロリンで東南極、東経80度近くのヴェストフォルド・ヒルにあるトリン島(Tryne)に上陸しました。

現在では、遠方まで出かける私的探検は珍しくありませんが、初期の最も特筆すべきなのはアメリカ人ウィル・スティーガーが編成した南極大陸横断探検でしょう。同行した5人の仲間はそれぞれ英、仏、露、日、中からの出身でした。犬ぞりを使い、1989年7月27日に南極半島北端を出発し、6,400km余りを221日間かけて踏破した後、1990年3月3日に終着地点であるソ連のミルニィ基地に到着しました。

1500~1600年代

サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake) 1540~1596年
フランシス・ドレークは、探検家でもあり海賊であったという人物で、女王エリザベス1世のお気に入りでした。彼には、1588年のスペイン無敵艦隊撃破という任務が与えられました。しかし考えていたことは、科学的な探査や地図の作成などといった動機ではなく、もっと貪欲なものでした。1577年~1580年にかけて、ドレークはイギリス人初の世界一周を成し遂げました。この航海で、マゼラン海峡を通過し、太平洋と大西洋が出会う場所と考えていた南緯57度よりもさらに南を航行した事により、彼はティエラ・デル・フェゴ(フエゴ島)が伝説の南方大陸とはつながっていないことを明らかにしました。ホーン岬と南極半島の間の大荒れの海域は、彼の業績をたたえてドレーク海峡と名付けられています。

1700~1800年代

ジェームス・クック(James Cook) 1728年~1779年
当時、最も偉大な探検家であった英国人のジェームス・クックは、1768年から1771年にかけて、初の大がかりな探検をおこないました。それは、金星の太陽面通過の観測と南方大陸の発見を目的としたものでした。ジョセフ・バンクスや科学者たちとともに、南太平洋へと派遣されました。その航海で、キャプテン・クックはニュージーランドの大部分の海図を作成し、オーストラリア大陸の東海岸を目視したと主張しました。1772年から1775年の2回目の航海では、クックは、南半球の高緯度海域における初の世界一周を成し遂げ、当時一般的に信じられていた、温帯にある南方大陸存在の誤りを正しました。1773年1月17日、彼の2隻の船レゾルーション号とアドベンチャー号は、史上初めて南極圏に突入しました。この航海の後、サウスジョージア島の領有権を宣言しました。1776から1779年の彼の3回目の航海で、クックは北アメリカからシベリアにかけての北極圏の一部を探検しました。しかしその途上、ハワイ島で原住民によって殺されてしまいました。

ファビアン・ゴットリーフ・フォン・ベリングスハウゼン(Bellingshausen) 1778年~1852年
ドイツ系エストニア人提督であるベリングスハウゼンは、1819年ロシア皇帝アレクサンドル1世の命による南方諸島航海の際にはすでにロシアの偉大な船員として知られていました。彼の船はボストーク号とミルニー号でした。ベリングスハウゼンは初めてサウスサンドウィッチ諸島を訪れ、20世紀にも通用する綿密な測量を行いました。その時点で史上初めて南極大陸を目撃していたのかもしれません。翌年、彼は不毛で急斜面のピョートル1世島を発見し、確実に南極大陸を目撃しています。南極大陸を周航し、103,712kmの航海後、帰着しました。

ジェームス・ウェッデル(James Weddell) 1787年~1834年
ジェームス・ウェッデルは、王立海軍、商船、オットセイ猟など、多様な職業を経験しています。1819年~1822年にかけて、彼は帆船ジェーン号で南極でのオットセイ猟航海に関わりました。1822年、サウスシェトランド諸島とサウスオークニー諸島周辺ではオットセイをあまり見つけられず、新しいオットセイの生息域を探すために南方へと進路を変更しました。彼は、オットセイは見つけられませんでしたが、ジェームス・クックよりもはるか南の半島の東を396kmも航海し、後にウェッデル海と名付けられた大きな湾を奥に入りました。探検しながら、ウェッデルは海水温、水の流れ、氷の動きを注意深く観察し、のちの多くの探検の指標である科学的探検の基調を定めるのに役立ちました。

ジュール・セバスチャン・セザール・ デュモン・デュルヴィル(Jules-Sebastian Ceasar Dumont d’Urville) 1790年~1842年
1830年代は南極探検が集中した時期で、イギリス、アメリカ、フランスは、南方の謎に満ちた島々を探検するために探検隊を送りました。デュモン・デュルヴィルは、1837年から1840年、探検隊を率い、未だ誰も成し遂げたことがないはるか南方への航海の命を受け、アストロラーベ号とゼリー号で船出しました。デュモン・デュルヴィルの一行は、ウェッデル海の氷に閉じ込められながらも、南極の海岸線556km以上を海図に残し、また彼の妻の名を付けたアデリーペンギンを初めて記録に残しています。

エドワード・ブランズフィールド(Edward Bransfield) 1795年~1852年
ウィリアム・スミス船長が、後のサウスシェトランド諸島を発見したと報告した時、その探検隊の隊長は、若いイギリス海軍中佐、エドワード・ブランズフィールドでした。この遠隔地の島々の周囲を航海した後、ブランズフィールドはさらに南へと旅を続けることを決意し、未踏の島々を発見しようと考えていました。どんよりした天候で視界の悪い日が続いた中でも、彼は決して落胆しませんでした。そしてついに1820年1月30日、ようやく霧が晴れ、後に南極半島と呼ばれる場所がかすかに見えたのでした。極地歴史家たちの中には、ブランフィールドこそが初めて南極大陸を目撃したのだと考えている人がいます。

チャールズ・ウィルクス(Charles Wilkes) 1798年~1877年
もし、ジェームス・クラーク・ロスの航海が1840年代で最良の装備と編成だったとするならば、1838年~42年のチャールズ・ウィルクスのアメリカの探検隊は最悪のものであったと言えます。彼の6隻のどの船も耐氷船ではなく、2隻の船は南極付近を航海した経験がありませんでした。ウィルクスは、南極大陸のアデリーランド部分(オーストラリアの南)を発見し、現在、ウィルクスランドと呼ばれている海岸部分に沿って西へと航海しました。壊れやすい船体は、氷に打ちのめされ、また乗組員は病気に苦しみました。ウィルクスは、記載のない島々を海図に記し、精気を失った乗組員たちと帰国しました。彼は英雄視されるような帰国を期待していましたが、乗組員たちに対する厳しい待遇が問われ、軍法会議にかけられました。彼は無罪で釈放されましたが、127もの任務放棄をしたため、人気はありませんでした。

ナサニエル・ブラウン・パルマ―(Nathaniel B. Palmer) 1799年~1877年
クジラとオットセイの資源が北半球で激減したため、未開発の資源に富んだ南方へと注目が移りました。冒険家で野心家の若いアメリカ人、パルマーは、1770年代にキャプテン・クックが描いたたくさんの海洋動物を見つけに乗り出しました。1820年、オットセイ猟船団のヒーロー号という船に乗り、サウス・シェットランド諸島の南方のいくつかの島を発見しました。ベリングスハウゼンやブランズフィールドがそうであったように、彼も南極半島を最初に発見したと信じました。1年後、彼はオットセイ猟師のジョージ・パウエルと共にサウスオークニー諸島を発見しています。

1800~1900年代

サー・ジェームス・クラーク・ロス(Sir James Clark Ross) 1800年~1862年
北極探検の経験豊富なジェームス・クラーク・ロスが、1839年~43年にかけて王立海軍の南極探検隊を率いるというのは自然な選択でした。ロスは、厚くした船体や防水隔壁など、極地という特別な海に適したエレバス号とテラー号の2隻の船を率いて出港していきました。この探検で彼は、これまであらゆる船が大陸に近づくことを阻んでいた氷でも、実際には進めるということを実証しました。ロスは、流氷群を越えると広大な開水域があり、西側は、ビクトリアランドと名付けた南極大陸の一部であること発見しました。後にロス海として知られるようになる海域の南端辺りに、ロス島があって、活火山のエレバス山とテラー山があります。その向こう側には、現在、ロス棚氷として知られる高くそびえる棚氷があります。その棚氷に近づいた時、ロスは南緯78度10分に到達していました。

カール・アントン・ラーセン(Carl Anton Larsen) 1860年~1924年
ノルウェーの船乗りの家に生まれ、20歳までに船長の資格を取得し、25歳で初めて自分の船を指揮することになりました。
7年後、彼は南極で初となる植物化石を発見し、また海図に記されたグレハムランド(南極半島の北部)へと達しました。
1901年~1904年にはノルデンシェルド探検隊が使用したアンタークティック号の船長となりました。 船は翌シーズンに越冬隊を迎えに行く途中、氷に閉じ込められた挙句沈没してしまいました。氷上に避難した乗組員はポーレット島で越冬した後、1903年に越冬隊と共に救出されました。 翌年、ラーセンはアルゼンチンで投資を募り、サウスジョージア島のグリトビケンに初めての陸上捕鯨基地を創設しました。

白瀬矗(Nobu Shirase) 1861年~1946年
極地地方の探検は20世紀初頭の日本では興味を引き起こしませんでした。白瀬矗は、南極探検隊を組織するために、非常に多くの人々を説得しなければなりませんでした。政府が援助を断った時、彼は、かつての総理大臣・大隈重信に申し入れをし、ついに1911年、開南丸で探検に出発しました。1年目はほとんど収穫がありませんでしたが、白瀬は翌年の夏に南極へ戻り、クジラ湾に上陸しました。一行は、257km内陸に進み、南極に初めて日本の国旗を掲げ、英雄の歓迎を受けて帰国しました。白瀬は、余生のほとんどを探検の借金返済のために過ごし、最後は病気でひっそりと亡くなりました。

カールステン・ボルヒグレヴィンク(Carsten Borchgrevink) 1864年~1934年
オーストラリアに移住したノルウェー人のカールステン・ボルヒグレヴィンクは、南極捕鯨探検隊のメンバーとして、南極大陸のアデア岬に最初に上陸したと主張した後、有名となり脚光を浴びました。この名声を手段として使い、ボルヒグレヴィンクは、裕福な英国新聞出版者のジョージ・ニューンズの援助を得て、サザンクロス号でアデア岬への探検に戻りました。1899年にボルヒグレヴィンクの探検隊は、南極大陸で越冬する事にメンバーに意見の相違があったが、南極の冬の厳しさに耐え、南極大陸で最初に越冬をおこなった。ボルヒグレヴィンクは、ソリでロス棚氷を南に16km旅し、当時の最南端到達に成功しました。

エーリッヒ・フォン・ドリガルスキー(Erich von Drygalski) 1865年~1949年
1901年にドイツの南極探検隊の隊長に任命された時、ドリガルスキーはベルリン大学の地理学の教授としてすでに名前が知られていました。彼の極地経験には、1890年代のグリーンランドにおける4年間の科学的探検がありました。彼の船ガウス号は、ウィルヘルム2世ランドを巡り、氷に閉じ込められ、12か月間足止めされました。その間、ドリガルスキーは、90日間氷原をそりで渡りました。1906年にスピッツベルゲンを訪れましたが、残りの人生は南極に関するレポートを書くことに捧げました。

エイドリン・デ・ジェルラシュ・デ・ゴメリー男爵(Baron Adrien de Gerlache de Gomery) 1866年~1934年
1897年、ベルジカ号はジェルラシュの指揮もと、アントワープからはるか南に向けて、初の国際的な科学的探検調査のために出港しました。ところが南極に到着したのが探検シーズンも終わりに近い1月中旬だったため、ベルジカ号はすぐに氷に閉じ込められてしまい、南極初の越冬船となってしまいました。氷に閉じ込められていた約11か月間には壊血病や極夜の精神的影響など数々の困難を経験しました。ジェルラシュの探検隊は、1899年2月14日、爆薬とのこぎりを駆使して、ようやく氷から解放されました。その後ジェルラシュは多くの北極探検に携わった後、彼の船であるポラリス号をアーネスト・シャクルトンに売却しました。その船は後に有名なエンデュアランス号と改名されたのです。

ウィリアム・スピアーズ・ブルース(William Spiers Bruce) 1867年~1921年
博物学者のブルースは、1892年に捕鯨船の船医として初めて南極を訪れました。非常にスコットランド民族主義者だったブルースは、ロバート・ファルコン・スコットの最初の探検隊を断わり、1902年から1904年にかけて、彼自身のスコットランド南極探検隊を率いました。
 そのときの航海で、彼はウェッデル海の奥へ危険を冒して進み、コーツランドを発見しました。長い年月をかけた探検を通して、科学的データを集め、分析が行われました。ブルースは非常に丹念に調べています。その後、彼は北方へと進路を変更し、スピッツベルゲン探検の第一人者となるために、英国政府に掛け合いましたが、認められませんでした。落胆した彼は、セイシェル捕鯨基地の隊長となりました。彼が亡くなった時、彼の遺灰は、南極で散骨されました。

ジャン・バティスト・シャルコー(Jean-Baptiste Charcot ) 1867年~1936年
シャルコーは1903年から1905年にかけて、フランス号に乗船し、最初の南極探検に出かけましたが、長い間フランスの家を留守にしたことが原因で、探検から戻った時に夫人に離婚されてしまいました。しかし (この旅で夫人を失いましたが)、フランス政府に南極半島西岸の非常に正確な海図をもたらすことができました。彼の2回目の探検のときは、もちろん家には新妻が待っていて、前回は未知であった半島海岸線2,222kmの海図をもたらしました。彼はその後も極地探検を続けましたが、1936年にアイスランド近海で難破し、ほとんどの乗組員たちとともに遭難死しました。

ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott) 1868年~1912年
イギリスのデボン州で生まれたロバート・ファルコン・スコット海軍大佐は、13歳で海軍兵学校に入学しました。1899年に少佐となり、国の南極探検の陰の立役者サー・クレメンツ・マーカムに出会うと、すぐに南極探検を率いる任務を願い出ました。彼は任命を得て、1901年にディスカバリー号で南方へと向かいました。探検で科学的成果を挙げたほか、スコットはロス棚氷を越えて、ソリで当時の“最南端”に到達しました。
 1910年、彼は2度目の南極探検隊をテラ・ノヴァ号で率い、スコット自身と4人(エドワード・ウィルソン、ローレンス・オーツ、ヘンリー・バワーズ、エドガー・エヴァンズ)は、1912年1月17日に南極点に到達しました。しかし、すでにアムンセンによるノルウェーの国旗が、そこにたなびいているのを見つけました。スコットたちは帰路に悪天候に遭遇し、食料も燃料も尽きて、5人全員が死亡してしまいました。その翌シーズンの春に捜索隊が彼らの最後の苦闘を書いた感動的な記録を発見しました。

オットー・ノルデンショルド(Otto Nordenskjold) 1869年~1928年
ノルデンショルドの叔父アドルフ・エリック・ノルデンショルドは、ヨーロッパから北極海経由アジアへの北東航路を最初に航海した人で、まぎれもなく甥に極地への興味を植え付けた事でしょう。訓練を積んだ地質学者のノルデンショルドは、南極方面へ目標を変更する前には、ティエラ・デル・フエゴとカナダのユーコン州へ探検隊を率いています。1901年~04年にかけてスウェーデンの南極探検を指揮し、貴重な科学的成果をもたらしましたが、彼の船アンタークティック号が氷海で沈没してしまうというトラブルで有名になってしまいました。さらにノルデンシェルドは、1909年にグリーンランドへ、1920年~21年にはペルーとチリへと探検隊を率いてもいます。

エドワード・ウィルソン(Edward Wilson) 1872年~1912年
医師で、博物学者、特に鳥の絵を描く芸術家でもあったエドワード・ウィルソンは、1901年~04年に英国南極探検(ディスカバリー号)で初めて南極を訪れました。1902年に彼はロバート・ファルコン・スコットやアーネスト・シャクルトンとともに、それまでの“最南端”に到達したソリの探検に参加しました。ウィルソンは、スコットとの交友関係を持ち続け、スコットの2回目となるテラ・ノヴァ号での南極探検で、科学スタッフのチーフに指名されました。テラ・ノヴァ号の探検では、冬の間、皇帝ペンギンについて研究するためにクロージエ岬へ旅をしました。この旅は「世界最悪の旅」として知られています。
 ウィルソンは、南極点への不運な旅でスコットに同行し、スコットやバワーズらとともに命を落としました。そこは、彼らの命を救えたかもしれない食料のあった“1トンデポ”(貯蔵基地)から18kmのテントでした。

ロアール・アムンセン(Roald Amundsen) 1872年~1928年
アムンセンは、初めて南極で越冬したベルジカ号で、1等航海士として初めて本格的な極地体験をしました。彼は、並外れたリーダーシップの資質を示し、氷に閉じ込められた時、船の乗組員が役割を果たせるように支援しました。1903年~1906年には史上初めて北西航路の航海を成功に導きました。また、北磁極は固定点ではなく、常に動いており、北極圏の謎であることを証明しました。ノルウェー人として、アムンセンの野望はいつも北極点に到達することでしたが、ロバート・E・ピアリーが1909年にこれを成し遂げたと主張したため、その代わりに南極点到達を試みることを決心しました。1911年10月19日に彼と4人の熟練した極地隊は、フリチョフ・ナンセンから借りた船であるフラム号にちなんだフラムハイム基地から52匹の犬を連れて南極点に挑戦しました。計画は用意周到で、感動的な旅の末、1911年12月14日に人類初の南極点到達を果たしました。
 1928年、アムンセンは、一旦行方不明になったイタリアの探検家ウンベルト・ノビレ捜索に向かう途中、スピッツベルゲン南の海域で乗っていた飛行機が墜落し行方不明になりました。

サー・アーネスト・シャクルトン(Sir Ernest Shackleton) 1874年~1922年
アーネスト・シャクルトンは、ロバート・ファルコン・スコットによる1901年から04年にかけての英国南極探検隊(ディスカバリー号)の一員として初めて南極を訪れました。その探検で、彼はスコットとエドワード・ウィルソンに加わり、南極点到達を目指してソリで向いました。1907年~09年には、自らの探検隊を組織して、ベアドモア氷河を発見し、南極氷床高原に到達しましたが、南極点まであと180kmの地点で引き返しました。シャクルトンの次の探検は、1914年~17年にかけての南極大陸横断でした。しかし、彼の船エンデュアランス号は、氷に閉じ込められてしまい、流氷に囲まれたまま数ヶ月間漂流しました。シャクルトン隊は氷上キャンプをしながら、3隻の小さなボートで185km先のエレファント島までたどり着きました。そこからシャクルトンは救援を求めて、5人の仲間と共に1隻のボートに乗り、世界で最も荒れた暴風域を1,480km離れたサウスジョージア島へと航海したのです。さらに、地図の無い島を36時間かけて越え、捕鯨基地まで到達しました。その後、4度目の救援船でエレファント島に残した全員を救出し、最終的に隊員の誰一人欠けることなく生還できたのです。シャクルトンは、その5年後に彼の愛するサウスジョージア島で亡くなり、そこに葬られました。

ヴィルヘルム・フィルヒナー(Wilhelm Filchner) 1877年~1957年
フィルヒナーの最初の探検旅行はアジアでした。馬に乗ってパミール高原を探検し、探検隊をチベットまで率いました。その後南極大陸横断を決心し、1910年にドイツを出発しました。彼は目的を達成できませんでしたが、それまで未知だったウェッデル海の南の地域に到達しました。その功績を称えて、棚氷はフィルヒナー棚氷と命名されました。その後、フィルヒナーは二度と南極には戻りませんでした。彼は1926年~28年と1934年~36年にチベットへ二度の重要な探検をし、また1939年にはネパールへの探検隊を率いました。第二次大戦中にはインドに滞在しました。

リンカーン・エルズワース(Lincoln Ellsworth)1880年~1951年
アメリカの炭鉱主の遺産を相続したリンカーン・エルズワースは、有名な探検家ロアール・アムンセンに資金を提供し協力したことで有名になりました。1925年5月に、2人は北極点への飛行を試みましたが、不時着する結果となり、スピッツベルゲン島引き返すまで24日間を氷上で過ごすことになりました。
 翌年、エルズワース、アムンセン、ウンベルト・ノビレの3人は、飛行船ノルゲ号で北極点上空飛行を成功させました。1930年代には、ヒューバード・ウィルキンスとともに4度の南極探検を行いました。1936年、エルズワースと副操縦士ハーバート・ホリック・ケニヨンは、3回の給油をしながら南極半島からロス海までの南極大陸横断飛行を行ないましたが、リトルアメリカ基地手前26kmの所で燃料切れになり不時着し、最後は徒歩で基地まで帰還しなければなりませんでした。

サー・ダグラス・モーソン (Sir Douglas Mawson) 1882年~1958年
イギリス生まれのオーストラリア人地質学者のダグラス・モーソンは、コモンウェルス湾(オーストラリアの南)の探検でよく知られており、著書「Home of the Blizzard」に記されています。モーソンは、アーネスト・シャクルトンのニムルド号探検隊に加わって初めての南極を訪れ、エレバス山に初登頂した一員でもあり、南磁極にも到達しています。1911年~14年にかけての探検では、南極の風が最も強い場所に基地を作りました。1912年に、モーソン、ザビエル・メルツ、ベルグレーブ・ニニンズは、ジョージ5世ランドを探検しましたが、ニニンズは12月13日にクレバスに落ちて死亡し、メルツは4週間後にモーソン一人を残して亡くなりました。モーソンは、ソリを軽くするためにポケットナイフでソリを半分に切り基地に戻るという英雄的な旅をしました。最悪の天候のなか、乏しい食料にもかかわらず、クレバスを切り抜けて1913年2月1日にキャンプ地に生還したのです。彼はその後、再び探検隊を率いて南極に赴き、はるか南の地へのオーストラリア人の関心を絶えずそそらせました。

リチャード・イヴリン・バード(Richard Evelyn Byrd) 1888年~1957年
アメリカ海軍将校がスピッツベルゲン島から北極点まで飛行したと発表したちょうどその頃、バード提督も北極方面への探検を始めていました。1928年、南極へと方向転換したのですが、その探検は過去の南極探検の中で最も贅沢なものでした。
 基地には12棟の探検小屋に何百もの木箱(crates)や無線塔があり、電話回線までも完備されていて、バードはそこを「リトルアメリカ」と名付けました。1929年、彼は人類初となる南極点上空飛行をしました。この時、飛行中の飛行機が墜落する危機に見舞われ、急遽、生活必需品を機外に投げ捨てました。1933年~1935年の探検では、バードは「リトルアメリカ」の南201km地点の小さな探検小屋で単独越冬しました。彼は南極への探検隊を合計5回率いて、アメリカ政府の焦点作戦と冷凍作戦を完結させました。

サー・ヒューバート・ウィルキンス(Sir Hubert Wilkins) 1888年~1958年
ウィルキンスは冒険好きだったため、鉱業の仕事をやめ、ヨーロッパとアメリカで写真家として放浪しました。1913年~17年にかけて、彼はヴィルヒャルマー・ステファンソンの北極探検の正式なカメラマンとして、1920年南極への大英帝国探検隊に参加しました。また、1921年~22年のアーネスト・シャクルトンのクエスト号探検では、鳥類学者として勤務しました。彼の次の南極への旅は1928年で、新聞業界の有力者ウィリアム・ランドルフ・ハーストに資金援助を受けたものです。この探検で彼は初めて南極上空を飛行しました。1931年ウィルキンスは潜水艦で北極点下を潜ろうとしましたが、失敗しました。1930年代に、リンカーン・エルズワースとの縁で、彼は再び南極探検に行きました。1958年に彼が亡くなった時、彼の遺灰は北極点に散骨されました。

フィン・ロンネ(Finn Ronne) 1899年~1980年
熟練の機械技師フィン・ロンネは、ノルウェー人の彼の父が1910年~12年にロアール・アムンセンの探検隊の一員でもあったので、南極探検に関心があったのは至って自然なことでした。1933年にまだ若かったロンネは9回の南極探検の第1回目をリチャード・イヴリン・バード探検隊のスキーのエキスパート、犬の訓練士、無線技士として活躍しました。
 ロンネ自身率いる探検は、1947年~48年の私的資金援助によるロンネ南極調査探検隊で、このときストーニントン島で越冬をしました。彼の妻エディスも探検に同行し、南極で越冬した最初の女性2人のうちの一人となりました。ロンネ氷棚は彼女のために名付けられてもいます。ロンネは南極半島中部の広範囲な調査を行い、南極が本当の大陸であるということを裏付けるのに大いに役立ちました。

1900~2000年代

ジョン・ライミル(John Rymill) 1905年~1968年
ライミルは、1934年~37年にかけて英国グラハムランド探検を率いるまでに、同志のジーノ・ワトキンスと一緒にカナダへ1回、グリーンランドへ2回の、合計3回北極探検の経験を積んでいました。彼のグラハムランド(南極半島中部)探検は地理的に重要な意味を持っていました。なぜなら、グラハムランドが群島ではなく、大陸の一部である半島だと証明されたからです。英国グラハムランド探検では、ライミルは、調査を行うために、伝統的なソリと、飛行機という最新技術を合わせて利用しました。第二次世界大戦の海軍予備員としての軍務の後、彼は彼の出生国オーストラリアで農業を営み余生を過ごしました。

サー・ビビアン・フックス(Sir Vivian Fuchs) 1908年~1999年
国際地球観測年(1957年~58年)に南極への関心が復活し、イギリスの探検隊はシャクルトンが40年以上前に試みようとしたことに挑戦しました。イギリス連邦南極横断探検隊は、ビビアン・フックスの指揮のもと、1957年11月、6台の雪上車を使ってウェッデル海の近くから横断を始めました。一方、ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーはロス海側から南極点までデポ(物資集積所)を置きました。1958年1月20日フックス隊は南極点に到達しました。2月9日両隊は南極点を発ち、3月2日ロス海側のニュージーランドのスコット基地に着きました。その移動距離は99日間で3,472kmを超えていました。フックスは、入念に計画を練り、人間の忍耐力よりも信頼のおける効率的な機械を使いました。1958年から73年にかけて、彼はイギリス南極観測所所長を務めてもいます。

サー・エドモンド・ヒラリー(Sir Edmund Hillary) 1919年~2008年
エドモンド・ヒラリーは、テンジン・ノルゲイとともに、1953年にエベレストの人類初登頂に成功したことでよく知られています。その後、彼はネパールで医療や教育に尽力しました。その一方で、1955年~58年にイギリス連邦南極横断探検に参加し、ニュージーランド人として南極探検に重要な役割を果たしました。この探検で、彼は南極氷床高原の新しいルートを開拓し、改造した農耕用トラクターを使って南極点まで到達しました。ヒラリーは1967年に再び南極圏へと戻り、ロス海地域で初となるハーシェル山の登頂を指揮しました。


③南極の氷山・氷河・海氷について

南極の氷の結氷
 海水は塩分にもよりますが大体約-1.8度で凍ります。塩分が多いと結氷点は低くなります。面白い事に海が穏やかな時にゆっくりと形成された表面の氷は普通塩気がありません。液体中の塩の分子は氷の結晶が作られるとき濃縮され液体として残る傾向にあります。
 南極大陸周辺の海面は毎年厚さ1~3mの氷が形成され100km~200km沖合まで広がってゆきます。表面が冷やされて結氷温度まで下がると氷の結晶が出来始めます。気候が穏やかなら結晶はそれぞれくっついて厚くなり、ヤングアイスまたは、フラジル=氷晶と呼ばれる繊維質の構造を持つ氷が形成されます。
 ヤヤングアイスは膨張を繰り返し、細かく砕けて互いにぶつかり合い、摩擦しあいます。この動きで蓮葉氷(はすばごおり)と呼ばれる端がめくれ上がったほぼ円形をした薄い氷が形成されます。時間がたち気温が低いままであれば、更に多くの結晶が作られその蓮葉氷はやがて互いに結氷しあい、厚さ数センチメートルの固い層になります。冷たい気温が続けばこの層は海岸に凍りつき定着氷となります。定着氷は通常一冬の間そのままの形を保ちます。海流や嵐、潮流で定着氷が曲がったり、割れたりすると海面に海水域が出来て、ペンギンやミズナギドリ、アザラシ、クジラなどが氷の上に出たり、呼吸したり出来る場所となります。

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南極で見ることのできる氷
●パックアイス
 定着氷は、夏の間割れて浮き氷を作り、これが海流に押し流されると、積み重なりパックアイスとして広大な海域を覆います。風や波でパックアイスが分散すると、ポリニヤと呼ばれる海水域が沖合に出来ます。大陸の近くではパックアイスは西の方向に浮流しますが、南緯60°以北では東へ流れます。

●卓上氷山
 棚氷の前面から欠け落ちた天辺が平らな氷の塊を一般的に卓上(テーブル型)氷山と呼び、実際驚くほど巨大なものがあります。氷山は生まれた場所から大海原に漂ってゆき溶解するか、割れて2、3個に分かれるまでに長いものだと10年以上も同じ形を保っているものもあります。記録上最大の氷山は、2000年3月にロス棚氷から分離したもので、最初のものは全長286km、幅40kmほどの巨大なものでした。その氷山は後に分解しましたが、それでも数ヶ月は巨大な形のまま浮遊し、西の方向に流れてゆきましたが、その仲間は6年後もまだロス海に浮いていました。
 これらの巨大な氷山はおおむね、ロス棚氷やフィルヒナー棚氷のような大規模な棚氷から生まれます。ウェッデル海の氷山の多くはイースト・ウィンド・ドリフトによって運ばれ、ほとんどがサウスジョージア島の方向に移動していきます。
 他にウェッデル海の西側で北西の方に押しやられ南極海峡に(南極半島の北端)を通り抜けてゆくものがあります。
 この様な理由から南極海峡は「氷山小路(Iceberg Alley)」のニックネームがつけられています。

●小型氷山
 南極の氷山は、全てが卓上氷山の様に大きいものとは限りません。もっと小型の氷山が沢山あります。氷山というのは大小を問わず海にある氷床、棚氷、氷河、浮氷から分離した氷片を示すものです。しかしながら定義上氷山と呼べるものは、100平方m以上あって5m以上海面上に出ているものと考えられています。これより小さな塊は氷山状の氷塊と呼ばれています。
 殆どの氷山はその体積の6分の1から4分の1しか海面に姿を見せていません。

南極の氷床について
 地球の歴史の大部分を通じ、極地、温帯、熱帯といった異なる気候帯の中で、今日ほど際立った相違があった時代は過去に例をみなかったばかりか、古代、極地方には万年氷がありませんでした。それでも極地方は常に低い角度で太陽の放射ネネルギーを受けてきたため、熱帯地方より涼しかったのです。それならなぜ今日、これほどまでに大きな違いが生じたのでしょうか。

 氷床は地球が徐々に冷えてゆく長い期間の後に発達していきました。この冷却期間は1億5000万年ほど前から始まり、約300万年前まで続きました。科学者たちはこの期間に平均地表気温が約20度から10度に落ち込んだものと判断しています。この気温の落ち込みは恐らく極地方そのものの陸塊と海水域の分布が変化しておこったと考えられます。

 極地方の構成はこの2億年ですっかり変わりました。というのは大陸間の相対的位置がプレート・テクトニクス(地質構造作用)によって変わってしまったからです。科学者たちは、極地方が、万年氷ができるほど極寒になったのは大陸の陸塊ないし陸に閉じ込められた海で極地の海流の移動が中断させられてからのことだと考えています。両極が海水域にある間は主だった海流は比較的暖かい海水を低緯度から高緯度へ運び、季節海水はそれが永久海氷となる間もないうちに散乱させられたに違いありません。

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南極の氷河について
 地質学的根拠によると、つい500~600万年前まで南極地方では寒冷温帯性気候が続いていたのですが、400万年前までには最初の南極の氷河が海岸線に到達して氷山や卓上氷山の形成が開始されました。これが大陸周辺に広がり南極氷河時代が始まったのです。

 南極氷床が形成された影響は世界中に及ぼされましたが、興味深いのは北半球の氷河時代から少し遅れて始まり(200~300万年前)そのとき万年氷が中央ヨーロッパやアジアに現れて北米、グリーンランド、アイスランドの山々を覆ったのです。この氷冠は北半球では、ここ数百年かなり変動していますが、南極氷床は安定しています。


④南極の野生動物たち

南極の食物連鎖は他の海の生態系よりはるかに単純で一次生産者の珪藻類から高位動物までの段階が他の地域よりも少なくなっています。興味深いのは植物プランクトンを食べるオキアミが食物連鎖の重要なリンクを形成し、何百万もの魚やイカ、ペンギン、アホウドリ、ミズナギドリ、アザラシ、ヒゲクジラなどの主要な餌になっているからです。実際に私たちが南極で出会うほとんどの生き物が直接的、間接的に大量のオキアミに依存して生活しています。

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アデリーペンギン

[Adelie penguin]
体長60~70cm、体重5kgほど。特長は、目のまわりには白いアイリングがあり、頭部から背中と羽が黒色です。

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マカロニペンギン

[Macaroni penguin]
目の上に生えたオレンジ色の羽が特徴で、体長は約70cm。体重は5~6kg程度です。

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イワトビペンギン

[Rockhopper penguin]
やや小型のペンギン。頭部の「黄色の飾り羽」が特徴です。

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ゼンツーペンギン

[Gentoo penguin]
体長は75~90cm、体重は5~8.5kgほど。皇帝ペンギン、キングペンギンに次いで3番目の大きさです。頭に両目をつなぐ白い帯模様と両側がオレンジ色のくちばしが特徴です。

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ヒゲペンギン

[Chinstrap penguin]
体長は70~75cm、体重4~7kgほど。特徴は、顎の下に黒い羽毛の線が走っていて、まるでひげのようです。

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マゼランペンギン

[Magellanic penguin]
フンボルトペンギンに属するペンギン。体長は約70cmで中形のペンギンです。

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鵜(ウ)科

[Cormorants, Shags]
中型の鳥で、長い首と先が曲がった長いくちばし、長くて丸い翼、それに長い楔形の尾を持っています。シャグと呼ばれる種類もいますが、これは繁殖期に現れる鳥冠から来ています。殆どの鵜は全体に黒っぽい色をしていますが、南半球では黒と白の色合いのものが多くなっています。

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カニクイアザラシ

[Crabeater seal]
世界中で最も個体数が多いアザラシで、約3千万~7千万頭いると思われます。更にここ数十年間は南極海域のクジラの減少に伴って以前より多量の餌が行き渡るようになったため、個体数が増え続けています。カニクイアザラシは、その名前とは異なり蟹ではなくオキアミだけを餌にしています。

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ヒョウアザラシ

[Leopard seal]
名前が示す通り獰猛な捕食者です。南極にいるアザラシで温血動物を捕食するのはこの種類だけ。獲物はペンギンが高い割合を占めていますが、他のアザラシの幼獣、魚、オキアミなども食べます。臼歯はカニクイアザラシに似たいくつもの凹凸があり海水のオキアミを漉(こ)して食べるのに最適です。

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ミナミゾウアザラシ

[Southern elephant seal]
ミナミゾウアザラシは亜南極の殆ど全域にわたる島々に生息しているだけでなく、南極大陸の2、3の沿岸地域にも生息している大型哺乳動物です。世界最大のアザラシと言われその大きさは北極のセイウチを上回ります。雄は体長6m、体重は約4tで、雌は、体長3.6m、体重は約1tにもなります。

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ナンキョクオットセイ

[Antarctic fur seal]
オットセイは、アシカ科の典型です。雄の体重は180kgにもなり背中はオリーブグレイから銀色で、腹は褐色、真ん中に丸い切り替えがあります。首と肩にある粗毛は厚いたてがみが、年をとると頭部に鳥冠が生えます。雌は50kgくらいで、たてがみも鳥冠もなく、胸や喉は薄いクリーム色をしています。

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ナンキョクアジサシ

[Antarctic tern]
カモメにとても近い鳥で、この2つのグループは同属であると考えている鳥類学者もいます。カモメが常に上昇気流や風の流れによって飛翔するのに対し、アジサシは一直線に水平に飛びます。殆どのアジサシは沿岸性の鳥ですが、南極の種は広大な海の上を、長短さまざまな距離を移動します。

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サヤハシチドリ

[Snowy Sheathbill]
ふっくらとして鳩位の大きさをしていて、どちらかと言えば白い鳩に似ています。前足は三本の足指の間に未発達の水掻きがあるだけで、後ろの指はよく発達しています。体は純白でピンク色のたっぷりとした肉垂れがあり、巣籠もり中のペンギンや海岸線に沿ってゆっくりと歩いているのを良くみかけます。

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ナンキョクオオトウゾクカモメ

[Southern Polar Skua]
南極大陸には二種類のトウゾクカモメが生息しています。どちらもずんぐりとした褐色の鳥でその習性はむしろ鷹に似ています。頑丈で曲がったくちばしを持ち、水掻きのある脚には一見獰猛なかぎ爪がついています。大型のオオトウゾクカモメは固いくちばしを備え、全身が灰褐色の斑点で覆われています。

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アホウドリ科

[Albatross]
体長が大きく、長細い翼を持ち、短い尾と特有の飛翔パターンを持つアホウドリは海上で容易に見分けることができます。生涯の殆どを空で過し、最小限のエネルギーで空中に浮かぶグライダー航法に熟達しています。アホウドリは、ほとんど羽ばたくこともなく何時間でも空を飛び続けていられる鳥なのです。

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カモメ類

[Petrels]
カモメは主に沿岸地方に棲む海鳥で、ミナミオオセグロカモメのように高緯度で繁殖する種類はしばしば冬の間外洋を長距離移動します。長く幅広い翼を備えている割には、カモメはアホウドリやミズナギドリほど長い距離を飛ぶことができません。水掻きのある脚を持ち水面を巧みに泳ぐことができます。

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ミンククジラ

[Mink whale]
ナガスクジラ類で一番小型なのがミンククジラです。体長8m~10m、平均体重は6~8tで最大9tにもなります。鼻先が細く尖っているのが特徴です。体色は背中が濃い青灰色で、腹部が薄い灰色。胸鰭の上から青白い模様が背中まで伸びています。体の後ろの方に体長に比較して大きな背びれがあります。

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ザトウクジラ

[Humpback whale]
ザトウクジラはナガスクジラ科でも同科の他のクジラとは異なった属です。全般的な生態は他のクジラ類とほぼ同様ですが、いわゆるクジラ型という流線型の体型を備えてはいません。他のクジラ類と比べるとずんぐりしていて平均体長は15mで最大19m、体重は30~40tで最大では48tにもなります。